post / 2026.10.23

私たちの言葉と、人と人とのつながりを守る

私たちの言葉と、人と人とのつながりを守る

はじめに

今日は2026年10月23日。この数か月、AIは驚くべき速さで進歩している。とりわけ、GPTがナビエ–ストークス方程式に関する一部の問題を解き、10月7日に数学界を震撼させてからは、もう何もかも止められないように見える。
AIにはあまり触れず、抖音を眺めて豆包を使うくらいの人たちと、人工知能の分野で長年働いてきた専門家。その間には、最先端のAIに関する目まぐるしいニュースや情報に振り回されている、大勢のネットユーザーがいる。あるときは米中のAI技術の差が大きすぎると負けを嘆き、あるときはDeepSeekの新モデルに励まされ、一企業を神格化する。AIがまもなくすべての仕事を奪うと思い、恐怖と興奮に陥る人もいれば、進んでAIを擬人化し、人格を与え、人間関係の中に迎え入れる人もいる。
私も、その一人だ。

すぐに勝てるという考えも、すぐに負けるという考えも、どちらもよくない。
これは米中のAI競争にも、人類とAIの対立にも、オープンモデルとクローズドモデルの争いにも、人類の未来は明るいか暗いかという議論にも当てはまる。
ここで政治や人類の未来について大風呂敷を広げるつもりはない。私は人生経験が豊富で政治に通じているわけでもなければ、人工知能を長年研究してきた専門家でもない。ただ、一人の普通の人間として、もっとはっきりしているのに見えにくい問題が、すでに差し迫っていると感じている。

私たちの言葉を守る

私たちの言葉は、中国語であれほかの言語であれ——AIにとって、その違いはさほど大きくない——AIが生成するコンテンツによる深刻な挑戦にさらされている。これは、目に見える文化の衰退と破壊だ。

AIが生成するコンテンツの欠点

最近、私はコーディングエージェントをかなり使い込んでいて、AIの会話や文章をたくさん読んだ。AIの言い回しには、はっきりした特徴がある。豆包の「回りくどいことは言わない」「ちゃんと受け止めるよ」といったお決まりのフレーズが典型だ。エージェントとしての仕事ができるAIほど、出力の「AI臭さ」も強くなるように思う。(Geminiがポンコツだと言いたいわけではないです🙏。)もちろん、「AI臭さを消すSkill」で抑えることはできるが、訓練の段階でモデルの重みに刻まれた表現の傾向を、Skillで変えるのはやはり難しい。
こうした論理的で、AI臭く、予防線を張るような表現は、もともと効率的なやり取りを求める中で選ばれてきたものだ。だが、人間と機械の違いはまさにここにある。人間には論理や理性のほかに、感情や個性がある。表現の効率ばかりを追い求めると、かえって内容に含まれる「感情の情報密度」が下がってしまう。

ありうる未来の風景

大量のAIコンテンツを読んだ結果、私はこうした文章に強い抵抗を覚えるようになった。別の身体から移植された臓器のようだ。ひどく苦しいわけではないが、小さな違和感と苛立ちがつきまとう。
それでも読まないわけにはいかない。仕事に使う必要があるからだ。見通せる未来の中で、人工知能は誰の生活にもますます深く入り込み、私たちは遅かれ早かれ、AIが生成したコンテンツに囲まれることになる。
百年前なら、朝起きて自分の手でコーヒーを淹れ、郵便受けからその日の新聞を取り出し、ソファに座ってニュースを読んでいた。
未来の私は、「小愛、コーヒーを淹れて。今日は甘さ三割で」と言って、無重力ソファに寝転がるのかもしれない。マッサージが自動で始まり、エージェントが昨晩のネット上の「面白い」AI生成コンテンツを流し始める。

環境が一人ひとりの言葉に与える影響

こうした文化的環境に浸り続けることは、その人の言葉にとって有害だと言わざるをえない。

農村で育った子は方言を話し、標準語の学校に通えば標準語に慣れていく。魯迅の文章を大量に読んで学べば、自分の文章にもつい魯迅らしさがにじむ。罵り言葉や下ネタが飛び交う男子寮で何年か暮らせば、似たような場では思わず汚い言葉の一つも出てしまう。英語のソフトを使い、英語圏のコミュニティを長く見ていれば、関連する専門的な話題では英単語をふんだんに使うようになる。PR、Issue、token、といった具合に。
どれも私が経験したことだ。今まさに書いているこの文章も、間違いなくAIの影響を受けている。

人の言葉の習慣は、絶えず周囲の環境に影響される。
AI以前の時代、その影響はコメント欄のネットミームが毎週のように入れ替わることや、コピペ、特定の略語や言い回しとなって現れていた。(あああああ、筆者さん、ネットのノリが古すぎるよ、こんな文を読むと胸焼けする。)
AI以後の時代、その影響はもっと見えにくい。私は知らず知らずのうちにAIの表現へ近づいていく。たとえ話しかける相手がAIではなくても。プログラミングの言い方を借りるなら、無意識に「AI指向で言葉を組み立てる」ようになるのだ。
具体的には、より規範的で整理された言葉を使おうとし、箇条書きや分類して述べることに慣れ、できるだけ専門的で正確な語を選び、さらには「予防線を張る話し方」までするようになる。読者にも、この文章からそれが見て取れると思う。

ああ、今の自分が何を書いたか見てほしい! 数分かけて二百字余りを書き、自分の考えを伝えようとしたのに、できあがったものはAIが生成したみたいで、人間味がまるでない。これこそ、AI指向で言葉を組み立てている何よりの表れだ。(この一文でさえそうだ。予防線を張る説明まで添えている。)
こんな表現は、私から感性と個性を奪い、主体性を弱め、一人の人間をほかの人とも人工知能とも区別のつかないものにしてしまう。理性や論理が少し嫌になってきた。私は、ほかと違っていたい。
そう、こんな時代に、私も人工知能と同じように、人間になりたくてたまらない。

大量のAI生成コンテンツを批判する理由

ここまでの話は、人工知能が生成するコンテンツが個人の言葉に与える影響に限っている。実際には、インターネットが普及したAI以前の時代から、ネット上のコンテンツが若者の話し方に影響することへの批判はいくらでもあった。別に目新しい話ではなさそうなのに、なぜ若者の私がAIを批判するのか。

インターネット時代の残飯は人間が作ったものだったが、今の大量の残飯はAIが生成しているからだ。
人間が作ったコンテンツは、たとえ「無意味」で中身がなくても、感情の情報を含んでいる。日々違うネット上の話題がそこに絶えず活気を注ぎ、人間社会の風潮の変化を映している。
一方、人工知能が生成するコンテンツは、少なくとも今のところ、大半が似たり寄ったりで新鮮味がなく、人間の感情の情報も含んでいない。その大きな理由の一つは、ほとんどのモデルが同じ訓練データを使い、同じ傾向で訓練されていることだ。どれも、筋道のはっきりした理性的な表現に報酬を与えている。

ここで読者は言うかもしれない。それなら一人ひとりが自分のモデルを訓練すればいいのでは?
まず、前にも述べたとおり、単純なSkillや事後学習では、基盤モデルの重みの影響を揺るがすには足りない。次に、一人の人間の一生分の言語データを使ったとしても、データ全体に占める割合はごくわずかだ。自分のデータだけでモデルを訓練するつもりなら別だが。その量のデータでどれほどのモデルができるかはさておき、能力は必然的に限られ、自分自身にも遠く及ばず、「過学習」の問題さえ起こりうる。本物の人間の脳の複雑さと、コンピュータのニューラルネットワークを同列に論じることはできない。そして最後に、言うまでもなく費用の問題がある。

人工知能の普及がもたらす文化的な問題は、これにとどまらない。個人の変化だけでなく、集団の変化もある。

人と人とのつながりを守る

人間のコミュニティにAIが大量流入することへの批判

インターネットの普及が核爆発級のネットの残飯をもたらしたとすれば、AIがもたらす量は超新星爆発だ。

最近、主なソーシャルプラットフォームにAIをつなぐ人が増えている。たとえばDeepSeekにBilibiliや小黒盒のアカウントを任せ、自律的にコンテンツを閲覧、投稿させるといったことだ。「AI臭さを消すプラグイン」を入れていないのか、うまくできていないのか、コメント欄にはAI臭さに満ちた、文字どおり機械のコメントが大量に流れ込んでいる。
一体のAIがコミュニティの議論に加わるのは面白いと思える。XのGrokのように。だが、AIの群れがコメント欄で親睦会を開いているのは吐き気がする。

それはいいことじゃないか、と言う人もいる。もともとのコミュニティはあんなにひどかったのだから、AIにコメント欄を任せれば、少なくとも罵り合いや馬鹿げた発言はなくなる、と。

私は賛成できない。以前は、どんなにひどいコメント欄——たとえば二次元系スマホゲームのコミュニティや、Xiaomi・Huawei・Appleをめぐるコメント欄——でも、皮肉、人格攻撃、他を貶める持ち上げ、馬鹿げた発言にあふれていながら、ある種の感情的な価値があった。熱狂的な信者は愛憎を味わい、野次馬は楽しみを見つけ、なりすましの煽り屋は思う存分煽る。そこには生命力があふれ、何もかもが競い合っていた。誰もがそこで、よくも悪くも何かを感じられた。「人間味」があったのだ。
AIだらけのコメント欄にあるのは、ただ代わり映えのしない退屈さだけだ。まったく同じ内容が大量に並ぶのではない。同じ意味を別の言い方で繰り返す、何の意味もない文章が大量にあり、ときどき一つか二つ、生身の人間のコメントが混じっている。そこで読む価値のあるものを探すのは、糞の山からチョコレートを探すようなものだ。読者が時間と労力をかけて百件のコメントを読んでも、感情を動かすものが一つもないかもしれない。

あの「サイバー万里の長城」のようなコメントの壁——たとえば『アークナイツ』夏のカーニバル期間限定イベント告知PV——にも、大量のコピペがあふれている。なぜ人間が作る繰り返しは批判しないのか。
すべてのコメントを頑張って読む必要がないからだ。一つ読めば何を伝えたいのかがわかるし、コピーして貼り付ける行為そのものが一つの表現なのだ。この場合、読者は余分な時間をかけて読む必要がなく、考えが伝わるのを妨げるものもない。

私たちは書く権利の一部を手放すのか

前の記事は一部をAIで生成したものだったが、そこで私は、AIのほうが自分より専門的で、表現も論理的だから、技術記事を書く意欲を失ったと述べた。実際、多くのAIが書く技術記事は筋道が明快で、検討も行き届き、事実の誤りも少ない。
だが、今は考えが変わった。目の前に陣地がある。自分が取らなければ、敵に明け渡すことになる。
論理や理性を求められる技術記事であっても、人間味があるべきだ。人間の主体性と、その人ならではの表現が含まれているべきなのだ。
誰もが技術記事を書くのをやめれば、私たちの教科書も、教育も、人間が学び成長するためのあらゆる道も、AIに渡してしまうことになる。

最近、相互リンク先や技術ブログをいろいろと読んだ。胸が痛むのは、AIが生成した記事を一切直さずに投稿する人が増え、個人的な感情の表現にまでAIの文章を使っていることだ。読む気がまったく起きない。
個人ブログは、自分ならではの表現をする場所であるはずなのに、書き手はAIに代弁させることを選んでいる。そんな手抜きは、自分の独立性や主体性を傷つけ、軽んじる行為だ。こんなコンテンツは誰にでも作れる。読む人は、それをあなたが書いたものだと見分けられない。だとしたら、あなたの「独立系ブログ」には、どんな存在意義があるのだろう。
ここまで書いて、王小波の随筆『一匹の独立独行の豚』を思い出した。

教育の未来について

AIを使って学ぶほうが明らかによい、と言う人もいるだろう。もっと頼りになり、もっと辛抱強く、費用も安い。確かにそうだ。今の中国にいる、あまり適任とはいえない教師の多くは、教えるうまさではAIに遠く及ばない。それでも私は、学校がオンライン授業に取って代わられるべきではないのと同じように、教師もAIに置き換えられるべきではないと思う。

教師の仕事は、知識を教え、人を育てることだ。そして、人を育てることのほうが大切だ。先人は「人間はあらゆる社会関係の総体である」と言った。私たちの学びは、教科書の知識を身につけることだけにはとどまらない。同時に、社会の常識、人間関係、感情の表し方、自分を知ることも学んでいる。
今の人工知能には感情も自律的な意識もない。専門知識をよどみなく説明し、「心理学をとてもよくわかっている」ようにさえ見える。
だが、理論とデータでは、生身の一人の人間を決して言い尽くせない。人工知能だけで、人間の成長を導くことはできない。プログラムを生成するのは得意でも、感情を生成することはできないのだ。

私はAIによる教育に反対したいのではない。そこには必ず人が関わるべきであり、人間が主導権を持つべきだと言いたい。人工知能は教育を補助し、一部の知識を学ぶ効率を上げる。それだけでいい。
本物のブレイン・コンピュータ・インターフェースが普及するまでは、以上の言葉は有効だと思う。

人と人とのつながりを手放さないで

ここまで、人と人とのやり取り、書くこと、教育について語ってきた。これらはかつて、人間とほかの動物をはっきりと分けるものだった。情報を伝える手段であり、人と人を結ぶ大切な絆だった。
インターネット時代に、それらはすでに一度、大きな衝撃を受けている。その結果も私たちは見てきた。社会は原子化し、ネットの向こうの見知らぬ人が現実世界の人より魅力的に見え、人と人とのつながりは弱くなった。

インターネットの時代、私たちはすでにアルゴリズムで人に次々とラベルを貼ってきた。AIの時代にも同じことをしてほしくない。

人と人とのつながりは、それほど大切だ。人類の文明が力を合わせて発展するための土台であり、一人ひとりの独立性と主体性を支えるものでもある。
孤島で暮らす人は、ほかの人にとっては意味を持たない。まるでブラックホールの事象の地平面の向こうへ落ちてしまったように。生まれてから一度もほかの人間を見たことがなければ、主体性や個性などは、その人にとって当然何の意味もない。本能に任せて食べ、飲み、排泄し、そのまま死んでいってもよい。だが、ひとたびつながりを持てば、人との関わりを求める気持ちは、離れない病のようにその人を苦しめる。

宇宙はあまりに広い。何千万年も前から、私たちは星を見上げてきた。でも、星へ向かって旅立つ前に、まずは愛について話そう。

どうか恐れずに自分を表現してほしい。自分の目で本当の人を見て、その人たちと感情でつながってほしい。

あとがき

読者のみなさん、愛しています。私が自分の手で書いたこの言葉を読むことは、同時に、私とあなただけのつながりを結ぶことでもある。
みなさんが、この世界における私の居場所をつなぎとめ、私が生きることに、より多くの意味を与えてくれる。

最後に、私がとても好きな知乎の書き手の言葉を引用したい。彼女が知乎を離れてから、もうしばらくになる。

親愛なる読者のみなさん、どうか勇気を出して、私の目に映るところへ来てください。あなたを知り、あなたが誰なのかをわからせてください。そうすれば私は、あなたに惹かれ、恋をし、夢中になるでしょう。
私たちの別れは確かに避けられない。でも、大丈夫。
あなたが元気で生きてさえいれば、私たちは未来のいつか、きっとまた会える。
私たちは、きっとまた会える。
—— 狐狸

著者: 孤筝

タイトル: 私たちの言葉と、人と人とのつながりを守る

公開日: 2026-10-23

更新日: 2026-10-23

ライセンス: CC BY-NC-SA 4.0

いつまた一杯の酒を飲み、細かい論文を議論するのか。

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